知財が分かりにくいというより、知財を理解しうる環境がないから[ref.]

たとえが微妙に不適切で、結論がK点越えの大飛躍を見せてるけど、このエントリでの言いたいことは分かる。
グルメテーブルの例は、「料理の権利」というよりも、「料理そのものへの対価」とすべきだろう。タダで手に入れてきた「料理」にお金を出すという感覚であれば、確かに理解しがたい。
もっと分かりやすい例を挙げるとすれば、チップを払うという慣習。日本人には、サービスに対して個人的にチップを払うという感覚があまり理解できない。「サービス料が正規料金/給料に含まれていないから別途に払う」という説明を受けて、ようやく「そういうもんかな」と思う程度。
もっと言えば、日本人は「サービス」に対価が必要だという意識そのものが薄い。「お店からのサービスです」と言われたら、タダでくれるものだと理解する。
けど、この感覚は「サービス」という無体の概念が分かりにくいから生まれるわけじゃない。日本では慣習として「サービス」を個別の料金体系に分けることをしなかったという、ただそれだけの理由。
何が言いたいかというと、表題の通り、知財が分かりにくいんじゃなくて、知財を理解できるような土壌が無いだけだということ。そして面白いことに、紙媒体になじみの薄い世代ほど、この土壌の形成が遅れている気がする。規範というのは、やっぱり概念理解よりも先に事実上の制約を受けることによって身に付けるものだが、ネットが普及する前を知っている人間は、情報収集に苦労している分その価値についても理解が早いんだろう。


というところまでで、一応言いたいことは言った。が、この後についてもちょっと書いてみたい。

そしてもっと言うなら、著作権は「著作者のわがまま」を権利化したものだ。

これは違うだろうと思う。どちらかと言えば、「消費者のわがまま」を抑制するものじゃないだろうか。
著作権というのは、確かに著作者に金を得させるものなわけだが、そもそも何故そんな事を法律で定めなければならないのか考えた方がいい。それは当然、「放って置いたら金を払わずに利用される」からだし、そうなると「著作者がやる気と生存手段を無くして文化的向上が無くなる」からだ。そうなって困るのは消費者なのに、消費者は規制がなければタダで食いつぶそうとする。イナゴのような消費者が文化的創作物を食いつぶして自滅しないようにするためにこそ、著作権はある。
「消費者の恩情で飯を食わせてやってる」とは、酷い主張と言わざるを得ない。それを「恩情」だと考える思考があるからこそ、著作権の法律的保護が必要になっているというのに。
同じ知財である特許を考えれば、もっと分かりやすい。何を発明しても何の権利もあげませんよと言われたら、それまでの開発費だけは全部自分持ちで、利益は生産・販売ルートを持つ人間だけが得ることになる。そんな状態で技術が発展するわけがない。


知財で一番大事なのは、供給をいかにして増やすかということだと思う。需要側のみが得するのでは供給側は潰れるだけだし、逆に既存の供給側だけを優遇すれば、需要側から供給側に入ってくる量が減って、将来的にはやっぱり供給側が潰れる。
これは権利者のわがままじゃなくて、文化国として当然の姿勢じゃないだろうか。