被害者が加害者に謝る国・日本[ref.](via.はてなブックマーク)

日本人の「謝る」は、「謝罪」だけを意味しているのではない、ということだと思う。よく見られるのが、「ありがとう」と言うべき場面で「どうもすみません」と言ったりする行為。「謝」という字は「謝罪」と「感謝」の両方を意味するわけだが、これは相手に気を遣わせたことに対して「義」における負荷がかかる、ということだと思われる。ルース・ベネディクトもそんな事を言っていた。
日本人の伝統的(≒失われつつある)性質として、「互助」とか「情けは人のためならず」とか、とにかくそういう「善意の貸し借り」みたいなものがあると思う。人間関係を密にして、時に異端は排除することで社会を成り立たせていた日本人は、いわゆる「ムラ社会」にある。この「ムラ社会」は、人的関係で形成されてはいるが、それは寛容とか情愛みたいなものに支えられているのではなく、実はシビアな取引関係の結果でしかない。他の住人を助けるのは、自分が困った時に助けてもらうためであり、決して「無償奉仕」とは違う。
これに対して、キリスト教だとかイスラム教だとかが支配的なところでは、善行に「無償奉仕」の色彩が強い。大きく見れば「死後の利益」を考えてのことかもしれないが、少なくとも相手から直接借りを返してもらおうとは考えない。そのような考え方は彼らの宗教上良くないこととみなされるからだ。高校時代、世界史の教師に教わったことであるが、「金を貸して利子を取る考えがデフォルトで許されていたのは日本人とユダヤ人だけ」らしい。そういう割り切った経済思想のおかげで、日本は手形や為替など、現代経済の流通システムを世界でもいち早く取り入れることができた。これも、日本人が貸し借りを明確に意識することの表れだろうと思う。更に言うと、ある実験の結果では、日本人は全く誰も見ていないところでは善行を行わなくなる傾向にあるとされる。逆に欧米人は、「神が見ている」からなのか、人の目の有無はあまり行動に影響しない。日本人は無意識に計算して善行を行っているのだ。
以上はまぁ、あまり根拠のない独断だが、敢えてそれを前提にして問題の行動を考えてみる。つまり、何故「被害者が加害者に謝る」のか。これは要するに、相手が上位に立っているからだ。「謝る」という行為は、自分が下位に落ちた場合と相手が上位に上がった場合の両方に用いられる。相手の善行によって借りが増えれば「感謝」するし、自分の悪行によって借りが増えれば「謝罪」する。相手との貸し借りの相対量でしかなく、どちらも「謝意」だから、時には互換性が生まれ、使用範囲が広がる。この点、英語だと前者は"Thank you"で後者は"I'm sorry"になる。英語では「どちらの行為に基づくか」がはっきりするから、これらが互換的に用いられることはない。
そして、相手との貸し借りに基づく負債計算を行うのが当然の前提である日本人は、「無償奉仕」が無い代わりに「無意味な暴力」も観念しにくい。ムラ社会において「無意味な暴力」は自分の立場を崩すデメリットしかないからだ。そんな日本人は、実際に「無意味な暴力」に晒されると、つい謝ってしまう。客観的に相手が上位に立っている以上、きっとそこには何か自分の負債があるに違いない、と思ってしまうのだ。自分が何か悪いことをしたのかもしれない、でなければこんなにも理不尽な暴力は取引上ありえない、と。だから謝る。もしも自分に負債があるのなら、「助けてくれ」などという言葉は「無償奉仕」を要求しているに過ぎず、効果などあるはずがないのだ。
欧米人が実際にそういう場面でどう言うのかは分からない。が、恐らくは相手の情に訴える。助けてくれ、私は何も悪くない、君の行いは神に見られているぞ、と。そして相手にそれが通じないと分かれば、「神」に無償の愛を乞う。自分が「無償奉仕」を良しとする以上、「無意味な暴力」の存在も認めざるを得ないし、その場合の回避手段にも相手に「無償奉仕」を要求することが含まれるわけだ。


日本人は、利益計算が当然になりすぎていて、「何で自分が下手に出ないといけないんだ?」という思考を飛ばすことが多い。同じく計算を前提とした相手とならそれで問題なく事は運ぶが、計算もなく強引に上に立とうとする相手には、その弱点が露呈する。