他人見下す「仮想的有能感」[ref.]

「オレをバカにしているのか!」。受話器の向こうから中年男性の怒号が響いた。大手メーカーのサービスセンターにかかってきた電話だ。
「電池を交換したが、カメラが動かない」という問い合わせに、担当者が「電池のプラスとマイナスの入れ方は間違っていませんよね」と確認した途端、男性がキレた。

怒鳴るのはどうかと思うが、こんな事言われたらそりゃむかつくだろう。電池の向きって。バカにしてると思われても仕方ないよ。俺でも言うわ。「あんたバカにしてるんですか?」って。これは対応した担当者が悪い。
それはおいておくとしても、「自分はできる」と虚勢を張ってみたり、「周りはバカばっかりだ」と他人を貶めてみたり、そうやって自尊心を保つことはそんなに現代的な心理か?と思う。そんなこと、多かれ少なかれ誰にでも、いつの時代の人間にもあるだろうに。あと、こういう言動って若者より年寄りに多い気がするのは自分だけだろうか。
要するに、「自分はダメだ」という現実に対して、どう対処するかの問題なわけだ。「ダメだ」ということを受け止めずに「ダメじゃない」と自己暗示をかけ、その暗示を破りそうな外的要因に対しては「キレる」と。記事中ではその原因を「格差社会」とか「競争社会」みたいに書いてるけど、どっちかというと逆な気がする。むしろ、これまで甘やかされてきたせいでそうなってるんじゃないだろうか。できなくてもそれを自覚できないような教育体制が問題なんじゃないか。
たとえば、学校でテストの成績順を廊下に張り出したとする。順位が下の方の人間は、「次は上を目指そう」と努力するかもしれないし、「俺はこんなもんだよ」と諦めるかもしれない。だがいずれにしろ自分の能力を現実的に把握できるし、そうせざるを得ない。もしかしたら「俺より下の奴はまだ何人もいる」と誤魔化すかもしれない。しかしそれでも客観的に順位が示されてる以上、それ以上の強がりは言えないし、自分の現状を把握させられてることに変わりはない。
ところが、成績順を張り出さず、あまり話題にもしないとする。そうすると具体的に誰が自分より上の人間で誰が下の人間が分からない。分からないとなれば誰を「下の人間」とみなすかは自由になる。「きっとあいつも俺より下の数人に入ってる」と思い込んでしまう。自分さえ誤魔化せばそれでばれることはないから。
思春期には、はっきりと自分の能力を把握できるようにしておいた方がいい。自己に対する過大評価・過小評価を無くし、かつ現状からどう行動すべきか判断する能力を育てるべきだ。