忍者は何故銃を使わないか

まず、フィクションにおける「忍者」には、二種類ある。
一つは、外人が思い描くようなファンタジー的忍者。もう一つは、諜報・暗殺のプロとしての比較的リアルな忍者。
前者の類型においては、忍者はまるで魔法のような「忍術」を使う。「ナルト」など、フィクションとしての忍者にはこの類型が多い。
このファンタジー的忍者は、もう完全に空想の世界であって、それこそ「剣と魔法」を主とするファンタジーと同じ。妖精の森に核ミサイルを撃ち込むことがないように、あるいはヴォルデモート卿のアジトに絨毯爆撃をしかけたりしないように、世界観を守るためには排除しなきゃならないものが出てくる。
ファンタジー的忍者の世界において無理してリアルな銃を出すとすると、「忍術」とのバランスの取り方が非常に難しい。銃の方が忍術より強いなんてのは論外だが、銃と忍術が能力的に互角だとしても、修行して忍術を身に付けるということがバカバカしくなってしまう可能性がある。となると、銃は忍術より大きく劣るものでなくてはならないが、それを表現するのは難しい。だから最初から出さないか、出すとしても雑魚としての扱いしかされない。「隠の王」では「忍者が銃使って何が悪いの?」と言ってたが、これは割と例外的。しかもこれとて、その内クナイで弾丸叩き落としたりしそうだ。
逆に、リアルでない銃を持ち出してしまうと、銃自体が「忍術」に取り込まれてしまう可能性が非常に高い。こうなると、手裏剣を使うことと銃を使うことの区別も付かなくなり、結局銃を持ち出す意味が無くなってくる。


後者の類型、つまり割とリアルな忍者の方は、いわゆる魔法のような「忍術」は無く、戦闘術や諜報技術、多角的知識を駆使する、単なるスパイ。あまりこの類型を題材にしたフィクションは見ないが、実は「忍たま乱太郎」なんかはこっちに近い*1。あとは「ARMS」の親父さんとか、完全に現代的にしたものなら(上の記事のコメントでも言われているが)攻殻機動隊や009-1が忍者ものだろう。
こっちの方では、恐らく銃も違和感なく登場させられるだろう。しかし、それは結局、外人の求める「忍者」ではない。特殊な伝統技術を持つ諜報員という形で終わってしまうだろう。外人は「実在の忍者」がどういうものか全く理解できていない節があるので、仮にこのタイプの忍者ものを見せたとしても、それを忍者ものとは認識できないんじゃないかと思う。


Johnはガン・ニンジャの例をいくつも挙げているが、日本人から見たらどれも笑いの種でしかない。いかにもアメリカ的な忍者信仰を表している。こんな設定の物語を作ったとしても、それを真面目に楽しめる日本人はいないだろう。
たとえば、「少林サッカー」や「少林少女」という映画がある。これらは、少林寺拳法でトンデモなことをするドタバタギャグ作品なわけだが、はっきり言ってこれと同レベルだ。荒唐無稽な不条理ギャグに限りなく近くなる。


このように、日本人にとって、ファンタジー的忍者は欧米の魔法遣いと同じレベルで認識されている。一方で、銃をメインに扱う場合、日本人は何故かリアリティを求めたがる。銃が社会にほとんど浸透していないため、銃に興味を持つ人間は多くがそのままガンマニアになってしまうからかもしれない。
このギャップから、ファンタジー的忍者と銃の組み合わせは、荒唐無稽なものになってしまいがちなのだ。
欧米人がサブマシンガンと手榴弾で決戦に臨むハリー・ポッターを見たいと思わないように、日本人は銃を扱う忍者など見たいと思わないし、そもそもそういうのは世界観的に非常に作りにくいというわけだ。

*1:学園で教える内容は割と実在の忍術に忠実で、ためになる。日中にも忍装束なのは子供向けだから仕方ないが。