『グラン・トリノ』

いかにもクリント・イーストウッド的な作品。ただし昔のではなく、最近の。
貧困と暴力と人種差別に囲まれた、アメリカの町。朝鮮戦争のトラウマを引きずるオールド・タイプな嫌われジジイが、東南アジアからの移民であるモン族の少年と心を通わせる。
少年との交流パートでは大分ジョークも入っているが、どことなくシニカルな雰囲気を感じる。結末も含めて、イーストウッド自身の人生に対する自省みたいなものが込められていたような気がする。
[以下ネタバレ含む]


イーストウッド演じるウォルトは典型的な保守的(というより旧時代的)アメリカ人で、ウォルトだけ見てると本当に50年代を描いてるような気さえする。そして、いつでもライフルとピストルを持って自衛している姿は、イーストウッド本人が全米ライフル協会の重役だったことを思い出させる。
だから、少年の家が蜂の巣にされて少年の姉が輪姦されたときも、ギャングどもを皆殺しにするか、何かうまい手を使って出し抜くのかと思ってた。復讐して自らの生涯を閉じるのだろうと。
ところが、実際にはその逆。銃を持たず、丸腰で殺され、そのことによってギャングどもを長期刑にした。
実はこの結末にはいくつか伏線が張ってある。朝鮮戦争で人を殺したことの罪悪感に苦しんでいるとか、最後に神父に懺悔しに行ったとき「これからすること」には懺悔しなかったとか。それでも最後に撃ち殺される直前まで「どうやってぶっ殺すんだ?」とか思ってたのは、ダーティハリーのイメージが強すぎたんだろう。「強いアメリカ」の象徴みたいな男がとった最後の行動は、ダーティハリーだったイーストウッドが別の何かになったんだと感じさせるものだった。


イーストウッドを見るという意味では非常に面白くて良い作品だったんだが、正直「強いアメリカ」時代を知らない世代としては、色々と分かりづらい。日本人だからか、人種問題も治安の異常な悪さも別世界を見るようだし、「アメリカ的なもの」をなかなか理解できない。
これを絶賛するというのは、朝鮮戦争すら知らない可能性のある若い層には、かなり難しいんじゃないだろうか。