鑑賞は感性より知識[ref.]

「読んでから批判しろ」「恋空がカスだからってケータイ小説の全てがカスではない」という意見はもっともであると思う。
けど、「れ」という詩と関連づけるのは間違ってると思う。

しかし、その態度は、「カンガルーがいるよ」と発見した子供を笑った編集者と何も変わらない。ぼくは笑った編集者であるよりは、笑われた子供でありたいと思う。
「れ」の字をただの字と思わず、そこにカンガルーを発見する子供でありたい。
ひとと同じ視線で物事を語ることなく、ただ一人、高みに立ったつもりで他人を見下していれば、自分のプライドは守られるだろう。だが、自分のちっぽけなプライドを守るために本を読んでいるわけではない。

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20071128/p1

酷い勘違いでは無かろうか。この編集者は、詩の意味が分からなかっただけで、上から嘲笑ったわけではない。もしもこの詩の説明をされたとしたら、きっと「ああなるほど!面白いですね!」と言ったに違いない。
では「恋空」擁護者は、「恋空」批判者に対して「そうか、その点は確かに評価できる」と言わせることが出来るか。答えはノーだろう。何故なら、「れ」という詩の面白さは子供の文字に対する見方・発想の独創性であると説明できるのに対し、「恋空」の面白さは何一つ言葉で説明できていないからだ。「泣ける」「面白いものは面白い」という印象論しか聞いたことがない。
どこがどう素晴らしいのか説明できるか否か、という点で「れ」と「恋空」は完全に次元を異にしている。


「面白いかどうかなんて言葉で説明できる必要は無い」と思うかもしれないが、それは大きな間違いだと思う。どんなものであれ、鑑賞するためには鑑賞するだけの知識が必要だ。絵画、文学、音楽、小説、アニメ、漫画など、どれについても同じこと。人間が何の前提知識もなく創作物を評価できるなどという考えは傲りも甚だしい。
そもそも、創作物自体が一定の知識や技術を前提に成立する。「れ」という詩についてもそうだ。一見、何の知識も無い子供がその純粋な感性で生み出したものであるかのように見えるけれども、実は違う。この「れ」という詩は、この子供の言葉を聞いた母親が、子供の発想に触れ、自分の中で反芻し再構成した上で、文字という媒体に表したもの。「子供の発想」を詩という形で表現した、母親の作品だ。決してその言葉を発した子供の作品ではない。「れ」をひらがなとしてとらえる、という固定観念があるからこそ、「れ」は詩たりえている。
結局、人の作為が入り込むからこそ、創作物には価値がある。どんなに美しくても、星空そのものは芸術ではない。人が自分の内面に取り込み、写真なり絵画なり、とにかく何らかの方法で表現したものが芸術だ。詩のような抽象的なものは比較的感性の余地が大きいとは言え、韻や音の数、メタファーなど、やっぱり作為は多い。
北村薫が「詩句をどう受け取るかは自由です。しかし、この場合に限るなら、別の解釈は無理でしょう」と言ったのも、そう解釈しなければ詩たり得ない、という意味を含むと思う。
このように考えれば、作為の過程を解き明かす点にこそ「鑑賞」の意義がある。そしてそのためには個々の過程についての知識が必要だ。「れ」の編集者はその知識を欠いていた。だからまともな評価が出来なかった。これに対し、「れ」を評価する人は「れ」を評価するための知識を与えることが出来る。知識を与えられれば、この編集者も考えを改めただろう。逆に、「いや、文字に対し別の何かを見出すことは独創的とは言えない。例えば…」と反論することも出来る。しかし、「恋空」について同じことが出来るのか。言葉で、創作における作為を解き明かせるのか。評価のための知識を欠く者にそれを与えられるのか。それが一番大きな問題であって、目線が上とか下ということは問題じゃない。