『秘密』

東野圭吾の同名小説が原作。NHK-BSで同じく東野圭吾原作の『手紙』がやってたけど、そっちは録画してリアルタイムではこっちを見た。
なんかキャッチコピーに「感涙」とかなってたけど、泣くところなんか一つもなかった。というか、感情移入どころか登場人物の言動に対する違和感が酷すぎて、すっきりしない気分だけが残った。
以下ネタバレあり。


妻直子と娘藻奈美の人格の入れ替わりについては明言はせずぼかしているけど、最終的な解釈としては以下の二つだろう。

  1. 妻の人格が娘に憑依し、一度は娘の人格が戻ったと思わせておいて、実は終始妻の人格だった
  2. 妻の人格が娘に憑依したと思わせておいて、実は終始娘が演技していただけだった
  3. 妻の人格が娘に憑依したが、すぐに人格は戻っていて、かなり初期から娘の演技だった

2と3の可能性は低いと思うが、いずれにしろ夫と妻(or娘)の心理や行動が不自然。
まず2の場合だが、九死に一生を得て目覚めた娘が、突如あのような演技をするというのはおかしい。そもそも母親が死んでいるということを認識しているはずもないし、仮に演技だったとして近親相姦までしようとするとか、完全にどうかしてる。
3の場合、母親が消えて父親が落胆するのを避けたかったというのはありうるが、それでも何も言わず母親のふりをし、父親に対して積極的にSEXまで迫るのは不自然すぎる。また、最後に思わず母親の癖が出るというのも妙だ。


そして1の場合。「娘の身体に死んだはずの妻の人格」という複雑かつ奇妙な夫婦生活が「切ない」のかもしれないが、この生活における妻の心理が全くの理解不能
どういう事かというと、この「妻」が本当に死んだ妻の人格だったとしたら、妻であると同時に母でもある。にも関わらず、この「妻」は娘のことを気にもかけない。憑依の事実を認識した時に泣いたくらいで、その後は完全に若い身体を満喫している。


たとえば、この「妻」は夫に対してしきりに性交渉を持ちかける。「実の娘とSEXするのはまずい」と断られると「口でしようか」とか「顔を隠すし声も出さない」とか言う始末。娘の身体を何だと思っているのか。
この性交渉の提案は、おそらく夫婦愛の確認だとか、夫婦関係の修復という意味があるのだろうが、夫婦としての愛を取り戻す手段にSEXしか思い浮かばない妻は色情狂かと思えるほど異様だし、そもそも母としての感情があるなら娘の身体でそんなことをするなど論外のはずだ。
夫の方も、最後まで一線は越えないものの、「娘の身体なんだからダメに決まってる」ではなく、「娘の顔を見ながらだとできない」という非常に頼りなく消極的な理由で拒んでいる。


また、「妻」は憑依の事実を知ったとき「娘を取り戻すためならどんな治療も受ける」と言っているが、実際には何もしていない。それどころか、怪我が完治し娘として学校生活を始めるやいなや、「娘として生きる」などと言い出す。
「何が起きているか知るために脳医学を学ぶ」と言って医大生となり熱心に勉強はするが、この非科学的事態に対し文献を集めるとかオカルト方面からアプローチするとかいった行動は一切無い。
その様子は、娘の身体を乗っ取ってやり直しの人生を満喫しているだけのようにしか映らず、娘の人格を取り戻すどころか娘を犠牲にして自分が楽しんでいるかのようだった。
夫も同じく娘の人格は死んだものとして、ほぼ最初から何もせず諦めている。


原作は知らないが、少なくともこの映画では、夫婦が娘の「死」を嘆いたり、娘の人格を取り戻そうと努力したり、娘の身体や人生を大切にしてやろうという様子が全く見られないのだ。
夫と妻がそれぞれ、娘か妻か、自分か娘か、という二択に葛藤するなら分かる。しかし、この夫婦は最初から娘を犠牲にする選択肢しかないかのように振舞い、ひたすら「イチャイチャしたいけど娘の身体だと難しいなぁ」ということで悩んでいる。
娘の人格が戻る可能性が否定される要素は何一つ無いのに、自分の性欲や夫婦関係維持のためだけに娘の身体で夫(娘にとっては実父)とSEXしようとする妻、若い身体を満喫する妻に「娘の身体なんだから」ではなく「お前は俺の妻だから」と言って怒る夫。あるのは夫婦の愛だけで、娘への愛などどこにも無い。「親」としては二人とも冷酷な人でなしとしか言いようがない。


最後に妻が(娘として)結婚した相手の父親が、実子でない子供をわが子のように育てたいい人だったので、ますます二人の酷さが際立つ。
この映画の感想を一言でまとめるなら、「お前らそれでも親か!」になるだろう。