ぼくらの #24「物語」[最終回]

どうも最終回の評判が良くないみたいなんだけど、個人的にはかなり綺麗にまとめ上げたと思う。
たとえば、最終回批判に多く見られるのが「伏線未消化」ってことなんだけど、これは別にそんな事もないと思う。というわけで、監督による原作批判騒動も含めて、考察してみよう。

伏線の回収状況について

これと言って重要な伏線が放置された形跡は無いと思う。特に「支配者」については、出てきた時点で伏線になり得ないと分かりそうなものだが…。

結局この戦いは何だったの?

多元宇宙におけるキャパシティ保持のために行われる、淘汰作業。
まず、多元宇宙の中でも、特別優位に立つ「地球」というものが存在する。その「地球」にいる「支配者」達は、別の宇宙を消滅させ、多元宇宙の増大を抑止しようとしている。そこで、より強い宇宙を残すため、たくさんの「地球」に巨大ロボットを与え、宇宙存続をかけた代理戦争を行わせることにした。
最初にロボットの操縦者は15人が選ばれるが、ロボットは操縦者の生命力を吸い取って動くため、操縦者は戦闘後に死ぬ。そうした戦闘を続け、勝ち抜いた地球だけが存続を許される。

ココペリは何だったの?

ココペリは引継ぎを行う者。作中で最初に子供達への引継ぎを行った男がココペリと名乗った。
戦闘に14勝すると、最後の一人は戦っても死なない代わりに「引継ぎ」をしなければならない。すなわち、次の「地球」へ行ってその世界で操縦者となる15人を集め契約をさせる。契約させた後、そこで自分自身が戦闘をして見せる。その戦闘に勝てば、元の世界に生きて戻ることができる。
操縦者に選ばれた者として生き残る唯一の手段が、このココペリとなること。

コエムシは何だったの?

コエムシはロボットと戦闘を管理する者。誰がなるのかは定かでないが、恐らく「支配者」達の世界から派遣される。作中では、ある世界で生きることに異常な執着を見せた契約者の少年が、別の「コエムシ」によって新たな「コエムシ」とされた。これはあくまで特別な事例と思われる。
コエムシは瞬間移動を自在に操り、次の操縦者を決定する権限を持つ。また、契約後の操縦者に対して戦闘の意義を伝え、最終的な引継ぎを誰に行わせるかを決定する。新たに契約者を増やしたり、そのために余った操縦者を契約から解放したりもできる。これらは全て自由裁量に基づく。

何故子供達が選ばれたの?

契約者は子供である必要は無い。ただ、引継ぎを行うのが前の世界の住人であり、操縦=死であることから、必然的に「ゲーム」などという風に騙して契約させることが多くなる。従って、騙しやすく、また同時に15人という多数を集めやすい子供が選ばれることになる。

「支配者」は結局スルーですか?

「支配者」の存在は、明かされると同時に「圧倒的なもの」「手の届かない相手」として結論付けられている。作中の「地球」は、どう足掻いても「支配者」達に反撃することはできないということで終了しているので、伏線未回収とは言えない。むしろ、こうした絶対的束縛自体がテーマの一つと言える。
もしも「支配者」との対決を期待していたのであれば、あまりにも少年誌的発想に毒されている。

戦いに勝っても「支配者」達にエネルギー吸い取られるんじゃなかったの?

エネルギーを吸い取られるのは、淘汰システム自体の必然ではない。
ロボットの戦闘を繰り返す内に、どの「地球」でもそのテクノロジーを手にしようとロボットの解析を始める。そしていずれはそのエネルギー伝達システムを手に入れるのだが、そのシステム自体が罠であり、そのシステムを稼働するとその「地球」のエネルギーが自動的に「支配者」達の「地球」へと送られるようになる。
作中では、イレギュラーとして多くの世界を渡り歩いてきたマチによってその事実が明らかとなり、上記のテクノロジーに手を出すことを止めたため、(無理解な人間達に押し切られない限り)今後もエネルギーを吸い取られることはない。

引継ぎ戦はどうなった?

厳密には、引継ぎ戦での勝利は「地球」存続には必要無い。14勝の時点で勝ち抜けが決定する。
それでも、通常は淘汰システム継続のためにコエムシによって引継ぎ戦が強制されるが、作中では石田コエムシを殺し花沢コエムシの許可を取ったことで、操縦者=管理者というイレギュラーが発生した。これにより、14人目であるウシロは勝ち抜けを確定させた後、引継ぎ戦を行わずにロボットを解体することができた。

義手はどうした

引継ぎ戦が無い以上彼にはもう軍人としての役目しかない。ロボット解体を決意していたため、管理者であるウシロも最初から彼をジアースに乗せなかった。

原作批判騒動について

最初に言っておくが、自分は原作を読んでいない。なのでどれだけ違うかは判断しかねるし、原作ファンの怒りも分からない。が、アニメを原作と別個に考えるとすれば、アニメはアニメで面白いと思う。結末も含め、単体として十分面白い。
それと、「ぼくらの」自体は読んでいないが、「なるたる」は読んでいるので大方の想像はつく。少なくとも、「なるたるの作者がまともな結末を用意しているわけがない」ということは分かる。もちろん偏見でしかないが。「なるたるなんかと比べるな!」と怒られたら、そうなのかと納得するかもしれない。
なるたるの「豚喰い」なんかは個人的に軽いトラウマだから、もしも今回「ぼくらの」アニメ版で監督がそういうシーンをカットしてくれていたのだとしたら、むしろ感謝したい。

アニメとしての構成

アニメは、24話という短い期間で全てを終わらせなければならないので、独自に再構成する必要がある。この再構成において一つの視点となったのが、ウシロだと考えられる。15人の中で最も生に執着していたウシロが、全員の戦いを見て、成長していく物語としてとらえ直したと言ってもいい。
ウシロを中心に据えた場合、アニメ「ぼくらの」の構成はバランスがいい。
まず、15人は基本的に仲良しグループではない。偶然集まった(集められた)だけの集団だ。だから、最初の数人はあっさりと死んでいく。ウシロと関わりが浅いからだ。彼らは、基本設定の理解を促す役に過ぎない。それに対して、田中さん達が物語に入り込んでくるとそちらに焦点が移る。ウシロにとって関わりの浅い仲間達より、母親である田中さん達の方が重要なので、当然と言える。逆に、ある程度接点があるキリエやカンジは比較的厚めに描かれている。
そうしたメリハリを持たせた上で、「非契約者としてのカナ」「カナに過剰な暴力を振るうウシロ」をさり気なく印象づける。この時点で、ウシロがカナに対してある種のコンプレックスを抱いていることも悟らせている。
原作ファンには納得いかないかもしれないが、アニメとしてひとまとまりの作品を作るのであれば、この再構成は合理性がある。あとは「どこまで裁量が許されるか」の問題に尽きるだろうが、個人的には、今回の再構成は許容範囲内だったと思う。

まとめ

監督の言ってることは正直よく分からないが、個人的にはアニメ単体として見て、特に不満は無かった。「支配者」の姿を伏線としてとらえた上で未消化と叫ぶ声が多いけど、上で述べたようにあれは伏線でも何でもない。
最終的な締め方についても、悪いとは思わない。「操縦者は死ぬ」という設定の中で、カナがただ一人契約せずに戦闘を見続けていた以上、彼女が語り部として生き残るのは自然な流れ。救いのある結末を望むなら、カナ視点の後日談は無くてはならないものだろう。
というわけで、アニメ「ぼくらの」は全体として良作だったと評価する。
もっとも、いずれ原作も読む。そうしたらまた考察してみる。

追記

大分時間をあけてしまったけど、原作もちゃんと読んだ。
原作すごく面白いし良作だと思う。だけど、いまいちアニメが叩かれた理由は分からなかった。
原作読んだ上で改めて考えてみても、やっぱりアニメが上に書いたような再構成として妥当なものだったと思う。批判してる人が言うほど、滅茶苦茶に話を歪めたとも思えないし。
結論。「ぼくらの」は原作もアニメも面白かった。