CLANNAD最終回の解釈-全ルート愛テーマ説-

最終回の感想エントリに書いてたけど、エントリ名と内容を一致させようと思って独立。
ギャルゲ経験皆無(当然CLANNADも未プレイ)の人間による、CLANNAD最終回の解釈。
まず本編から分かるものとして、以下の情報が前提になる。

  1. 異世界の少女は汐
  2. 異世界のロボットは朋也
  3. 時間逆行に伴いロボットは朋也に還り、少女は異世界に残って消失(?)
  4. 時々出てきた「光」は人々の「想い」→集まると奇跡が起きる

ここから普通に考えられるのは、「光のおかげで時間が逆行してハッピーエンドになりました。ただしバッドエンドの方の汐は消失するので朋也だけイセカイ界トータル!」って感じ。
ファンタジー作品としてはこれをもうちょっと突っ込んで考えたら終わりなんだけど、それだけじゃ何だかなーと思ったので、ここは敢えて全ルート愛テーマ説を唱えたいと思う。

異世界の意味

異世界は当然「渚が死んだ世界」のメタファーだろう。しかしそれは単にファンタジー的な意味で終わるものではない。
すなわち、この世界は「渚が死んだ場合に辿る1周目のルート」だ。その場合、そのルートのヒロインは汐になる*1。そして、プレイヤーは渚の死によってガタピシ状態。
汐というヒロインは、ショックで死んでるプレイヤーを「組み立てる」=その可愛らしさによって、再びプレイする気力を呼び起こす。再び楽しい時間が流れ出すが、汐もまた死んでしまうというエンディングに変わりはなく、単なるコンシューマーであるプレイヤーにはその脚本を抜け出す=飛行機を作って汐を連れ出すことは許されないのだ。

トゥルーエンドルートへの分岐

異世界は消失する。ゲーム内ではついに汐が道で倒れ、力尽きたからだ。当然汐を表す少女も消える。
しかし、ロボット=朋也=プレイヤーは、ニューゲームできる。そして今度は渚が助かるルートを選択できるようになる。やったね。

「光」の意味

渚が助かり、汐が元気で、何もかもがハッピーなエンディング。プレイヤーの誰もが望んだエンディング。
だがしかし、そのエンディングのためだけにCLANNADをプレイしたのか?否。
他のサブキャラ達とのエンディング、とりわけ、死んでしまった方の汐と過ごした時間はトゥルーエンドのための布石でしかなかったのか?否。
あらゆるルートへの、あらゆるヒロイン達へのプレイヤーの「想い」は、そのルートを終えてリセットしても=異世界が消えても残る。逆に、そうした全てのエンディングに対する熱い「想い」があったればこそ、最後にハッピーエンドが迎えられたのだ(ゲームシステム的に)。
そう、「光」とはすなわち、プレイヤーのサブルートへの「想い」だったのだ。渚の言う「街」はギャルゲそのもの。プレイヤーはギャルゲを愛する。ヒロイン達に幸せになってほしいと願う。そんな気持ちが真のハッピーエンドを生み出すのだ。

まとめ

アニメ「CLANNAD」は、メインルート以外の全てのルートに対する愛をテーマとして、そのメタファーを取り込んだ作品。
出会わなければ良かったなんて思わないでほしい。ヒロインは、プレイヤーと出会えて幸せだったんです。たとえバッドエンドに打ちひしがれても、もう一度話しかけてください。どんなエンディングを迎えたとしても、あなたはヒロイン達を愛していたはずです。ヒロイン達もまた、あなたを愛していたのです…。

マジでギャルゲ経験皆無。そんなんで何書いてんの俺って自分でも思う。
クロノクロス」と「神のみぞ知るセカイ」の影響が強い。

*1:本当にそうかはやったことないから知らないんだけどw