『崖の上のポニョ』

これほどターゲット層を見失った作品も珍しい。不合理さと違和感のせいで大人には楽しみにくいが、かといって、子供が見ても何も得るものがない。童話を作ろうとして完全に失敗した感じ。
以下ネタバレあり。長文。

ストーリー

舞台は酷く汚い海の港町。モデルとなった場所に忠実なのか、この海はとても汚い。序盤であまりに汚さが強調されてるので、何か意味があるのかと思いきや、フジモト(ポニョの父親で、元人間の魔法使い)が少し言及しただけで特に意味は無かった。後半の「魔法に満ちた海」が反対に異常なほど綺麗なため、前半と後半とで全く世界が違うという演出にはなったかもしれない。もっとも、全く違う世界になることの意味自体が無いため、それでも単なる違和感の元でしかないわけだが。
フジモトの元から家出したポニョは、偶然5歳の少年宗介に拾われる。一旦はフジモトに連れ戻されるポニョだが、魔力の精製水のようなものを飲んでパワーを上げ、人間に擬態して再び宗介のところにやってくる。
ポニョの魔力が強すぎて町は超高潮に見舞われ、しまいには月が落下し始める。それを防ぐため、ポニョの母親である海の女神は「人魚姫」的解決策を提案する。要するに、宗介がポニョを受け入れればポニョは人間になれる。人間になれば魔法は消えるので、万事解決。
後半は宗介とポニョが二人だけでしばらく小さな冒険をするのだが、最終的にはポニョが人間になって終わり。異なる世界にあるべき二人が一つ強くなってお互いの世界に帰る…というこれまでのジブリとはここが違う。子供向けということで「めでたしめでたし」にしたかったのだろうが、後述する激甘脚本のせいで、この結末はあまりに陳腐になってしまう。

映像

映画が始まった瞬間に分かるが、いかにもセル画的。初期の「ハウス名作劇場」を彷彿とさせるほどに懐かしげのある風合い。だがこれを「懐かしい」と思えるのはある程度歳のいった人間だけだろう。
自然物の描き込みは緻密だが、逆に人工物は意図的に簡略化している部分が多い。恐らくこれも古いファミリーアニメを意識してのものだろう。車のナンバープレートがただ「333」としか描かれていないのには恐れ入った。「333」には実は深い意味があるのかもしれないが、自分には幼児番組的な「適当さ」を表そうとしたようにしか見えなかった。コケているが。車のフロントガラスに車検シールも貼っていないし、そういう細かい描き込みは一切省かれている。
単なる作画以外にも、停電時の様子*1など、シーンとしての不自然さも細々と見受けられる。

時代設定と時代錯誤な表現

この作品は現代を舞台としている。少なくとも、ノートPCがある程度には現代だ。しかし、その割に宗介は明らかに昭和の子だ。無地の半そで短パンに刈り上げ頭。ゲームの一つも持たずに、遊びは蝋燭の火で動く(ラジコンではない)船の模型を海に浮かべること。まるで「はだしのゲン」だ。
宗介は使う言葉も古くさい。映画館で思わず吹き出してしまったのは、「しめた!」「しめしめ」「上々だ」という言葉。親のどちらかがそういう教育方針だという描写も全く無いので、このセリフは唐突すぎて笑うしかない。
ポニョの人間バージョンでも、ワカメちゃんスタイル(かぼちゃパンツがスカートから出まくり)になっているのだが、誰も全く気にしない。「となりのトトロ」のような旧時代の設定ならともかく、今時それはないだろうと思う。
この辺に宮崎駿の狂った「子供観」が見て取れる。今の子供にこんな昭和の子供を見せて、共感が得られると思ったのだろうか。彼は「子供に向けて」作ったと言うが、その「子供」は、間違っても平成の子供達とは合致しない。あるはずのない、宮崎駿の幻想の中の子供でしかない。
その一方で、宗介は両親を「お父さん」「お母さん」ではなく名前で呼び捨てにする。これは「クレヨンしんちゃん」に現代の子供を見て真似したのじゃないかと思う。親を名前で呼ぶという好ましくない在り方について、なんのフォローも無く進めているので、「知らないけど今の子供ってこうなんでしょ」という安易な考えで設定したようにしか見えない。
携帯電話も一切登場していない。ストーリー上うまく必要性が無いように見せているが、時間確認や一応の連絡など、現実なら絶対に見せるであろう場面においても一切描写がないことから、これもうまく描けなかったんだろう。
昭和の幻想しか描けないのに無理して平成を舞台にしているから、時代が混乱した違和感だらけの表現になってしまっている。

登場人物の異様な行動

崖の上のポニョ」に登場する人々は、はっきり言って言動が異様すぎる。最初は、完全無欠の善意に囲まれているだけかと思っていたのだが、後半になるとそれどころじゃ済まなくなる。善意というよりただのアホだ。常軌を逸している。
たとえば、後半、ポニョの魔法の影響で町は10m以上水位が上昇し、ほとんど全てが水没している。その前にものすごい大波にも襲われてるので、どう考えても大量の死者が出ている状況なのだが、町の人々はそれを一切気にしない。心配すらしない。ごく僅かの高台を残してほとんどの家は完全水没だというのに、絶望してる様子も無い。
宗介とポニョがボートで家を出た際には、若い夫婦が「おーい」と声をかけてきて、「あら宗ちゃんじゃない」などとにこやかに挨拶する。普通なら、「宗ちゃん!無事で良かった…!あら?お母さんはどうしたの!?」となるだろう。だが顔見知りのはずのこの夫婦も、その後登場する避難民の皆さんも、まるでピクニックでもしているかのような気楽さだ。別れ際、ポニョが水面を走っているのを見ても、あまり驚かない。「まぁ…」という程度。頭がおかしいとしか思えない。

童話たりえない激甘脚本

「ポニョ」の結末は、「人魚姫」を取り入れている。「昔ながらの方法」で「失敗すると泡になる」と言っていることから、それは間違いない。だが、「人魚姫」と違い、「ポニョ」は童話たりえない。何故なら、そこには強烈に心に残るようなエピソードが無いからだ。
ポニョが人間になる方法は、こうだ。「魚としてのポニョを知っている男の子が、それでもなおポニョを受け入れ、ポニョは魔法を永遠に失う」
これが「人魚姫」とどう違うか。
まず、宗介への条件が無いも同然だ。宗介は元々ポニョが好きなのであって、しかもポニョが人間になると言うのであれば、受け入れないはずがない。心が綺麗とか本当に愛しているとか、そういう事情が全く必要無い。嫌いでない限り受け入れるに決まっている。
「人魚姫」の王子は、人魚姫をふと現れた口のきけない美女としか認識できておらず、人魚姫を選んでくれるという保証が全く無い。それどころか、人魚姫が王子を助けたのに、それを別の女性と思い込んでいる。こういう不安・リスクが宗介については全く存在しないのだ。
また、ポニョが失うものも軽すぎる。人魚姫は、その誰よりも美しい声が自慢であり、彼女のアイデンティティーになっていたと言っても過言ではない。彼女はその声を失うことで、ようやく試練を受けるための挑戦権を手に入れる。
ところがポニョは、1日ほど前に手にしたばかり*2の魔法の力を失うだけですぐ人間になれてしまう。人魚姫にとっての「声」と違い、ポニョにとって魔法が大事なものという描写は全く無いし、実際人間になってしまえば無くて当然なのでどうでもいい。人魚姫が「声」を出せないせいで王子を失ったのに比べてあまりに軽い。
「人魚姫」が童話たりえるのは、そこに「愛」のための「覚悟」があるからだ。何より大切なものを捨ててまで会いに来て、期待を裏切られた後も王子を殺して人魚に戻るという選択肢を選べなかった。そういう強さと悲しさが深く心に残る。そうして、それを読んだ子供はそれを成長の糧にする。
ところが、「ポニョ」はそういうものが何も無い。「約束を守る」がテーマと言う人もいるが、実際には宗介はポニョを連れて母親を捜し歩いただけなので、宗介自身に「ポニョを守る」という意識があったわけではない。最初から最後までネジの飛んだ善意に囲まれ、何もかも周りがお膳立てした状況でリスクも葛藤も無い一択のみの選択肢を選ぶだけ。
こんなものを見ても、子供の心には何も残らないだろう。ただそんな映画もあったなという「記憶」が残るだけだ。

結論

  • 宮崎駿は「子供」を壮大に勘違いしている。
  • 大人が見ると違和感ばかりが目について面白くない。
  • 子供が見ても心の成長の糧となるものは何も得られない。
  • これを見て楽しめるのは、物語に意味を必要としない言語未発達な幼児のみ。

はっきり駄作と断じても問題は無い、というのが正直な感想。

*1:玄関脇のコンセントに差した非常灯を抜いて点灯させるシーンがあるが、この時既に停電で電力供給は止まっているので、コンセントから抜かずとも自動点灯してないとおかしい。

*2:元々魔法の力はあったが、実際にはほとんど使っていないのでそこら辺は無視。